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近況報告

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7ヶ月ぶりの近況報告を、今日は小淵沢からお届けしています。
結婚しても、子どもが生まれても、年に一度くらいどうしても一人の時間が欲しくなって、ぷらりと短い旅に出ていましたが、今回は2年半ぶり。いろいろと忙しくて、逃避する間もなかったのかな。

この半年強だけでも、すごくいろんな変化がありました。
本当は一つ一つ丁寧に書き留めておきたかったことだけど、無理なので、箇条書きに羅列してみる。

・保護猫を2匹預かって譲渡した
・ハム太が小学生になった
・ハム太が体操教室に通い始めた
・近所の地域猫がうちの猫になった
・10年ほどやっていた地域猫の現場が終了した
・動物病院で看護助手として働きはじめた
・ペットシッターのバイトを始めてすぐ辞めた
・歯の矯正を始めた
・我が家の最高齢猫が亡くなった

あとはまあ…ここには書けないようなこともあり。
「それ」に心を揺さぶられていた半年でもありました。

動物関係の変化が多いのは、そーちゃんが亡くなったからかもしれない。
そーちゃんの死を見つめるうちに、より深く動物に関わりたくなったのと、そーちゃんへ遠慮する必要がなくなったのことの、両面がある。

そして、年齢的なことも。
わたしは人事関連の仕事が長くて、その中で、今のわたしの年齢は大きな一区切りと見なされることが多かった。つまり、今後はもっと、間口が狭くなるということ。それで、全くのダメもとで、やってみたかった仕事に応募してみた。シッターの方は、雇用主との関係で早々に辞めさせていただいたのだけど、病院の仕事は楽しく続けています。学ぶことが多くて、やりがいがあります。

一方で、人生でこんなに言葉から離れていたことがあっただろうか、というほど、読むことも書くことも少なくなった。夜、疲れていて、睡眠を優先することが多くなりました。時には、ハム太と一緒に21時半ころに寝てしまう。読まない、書かないということは、ゆっくりと考えることからも離れているように思う。考えないって、なかなか楽だ。考えることから逃げてばかりいると、自分でも気付かぬうちに浅はかになっていきそうだけど、わたしは元々考えすぎるきらいがあるので、このくらいで丁度いいのかもしれない。以前は、自分の後ろに続く過去を、機関車のようにいつも引っ張って動いていたけれど、今は自分=動力部という感じで、だから忙しくても、それなりに動けているのかも。

来月、またひとつ歳を重ねるんだけど、やはり自分でも、「ああ、そういう年齢だな」って感じることは増えてきた。まだ、いわゆる「中年」だけど、方向性としては確実に、終わりの方へ向かっている、って。本当はずっと前からそうなんだけど、この年齢になるとやはり自分でも驚くほどに顕著だし、年齢のサインが急に現れる。「誰だって歳は取るのだし」とアンチエイジングという言葉を小馬鹿にできていた自分はやはり若かったんだな、と感じて反省してます…。

でも、いわゆる「壮年期」でもあるしね。体力の衰えを知力でカバーして、自分を目一杯に使える時期でもあるのかも、と思うので、今こそ、やりたかったことをあれこれやっておきたいと思ってます。

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今回の一人旅では、3回目の乗馬体験をしたよ。
前より馬のことが分かった気がして、とても楽しかった。

小淵沢は、15年くらい前に、大学の先生達と来た思い出の場所。
あのときは電車で来たんだけど、実はバスで思ったより気軽に来られることがわかりました。
今回泊まったホテルが静かでとても良くて、新しい隠れ家にできそう。
時々来て、馬に乗ってリフレッシュできたらいいなあ。

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つらつらとした報告でしたが、ひさしぶりにブログを書けて嬉しかったな。
さて、もう少ししたらチェックアウトして、現実のほうへ戻ります。
次の報告がいつになるかわからないけど、半年も待たずに、ちょっとした報告ができるといいな。

それでは、お元気で〜。



                                       

# by umitoramarine | 2023-09-22 10:31 | つぶやき | Comments(0)

小さな魔女

先日、ハム太は3匹目の柴犬を手に入れた。
と言っても、ぬいぐるみの柴犬だ。

1匹目は、ハム太の祖父母が直島の寂れた土産物屋で購入したという、茶色の柴犬だった。
電源を入れると、こちらの話した言葉をオウム返しにしてくれる。
直島とはなんの所縁もない、どこにでも売っているぬいぐるみだった。
2匹目は、祖父母を訪ねた帰りの空港で発見した黒柴で、緑色の唐草もようのバンダナを巻いている。
3匹目は、つい先日訪れた芦ノ湖の土産物屋で、あまり物を欲しがらないハム太に「ほしいものがあるの」と腕を引かれて見せられたクリーム色の柴犬で、やはり、唐草もようのバンダナを巻いていた。バンダナの色はピンク色。旅行中、ハム太は「まめこ」と名札のついたぬいぐるみを持ち歩き、出会う大人たちに「ねぇ、見て。ぼく柴犬持ってるの」と見せていた。

柴犬たちはそれぞれ別の会社が作っているようで、大人の手のひらに乗るくらいのサイズ感は似ているが、それぞれ質感や顔が違っている。でも、日本を旅する犬がコンセプトなのか、みんな土産物屋出身だ。外国人の旅行客などにうけるのかもしれない。

今日は日曜日で、夫は出かけており、わたしがハム太を遊ばせることになっていた。
天気もよく、横須賀線に乗りたいというので、数駅先のショッピングモールの屋上で遊ぶことにした。
家を出るときにハム太は、「あ、待って。まめこも横須賀線に乗りたいって」と言い、ポシェットにクリーム色の柴犬を入れた。

ファミリー向けのショッピングモールの屋上は、幼児とその親で芋洗いのように混んでいたけれど、ハム太は嬉しそうに電車になりきって走ったり、植栽の木の名前を確かめたりしていた。動き回りながら、まめこの顔がちょうどよくポシェットから覗くように、何度も調整し直している。そして時々、近くに来た自分より小さい子や、その親に、「ねぇ、これ知ってる?」とぬいぐるみを見せて話しかける。小さな子は、遊ぶのに夢中であまり聞いていなかったり、なにを言われているかわからず返事をしない。大人は「なぁに、柴犬?」と優しく反応してくれることがあるが、そうするとハム太は「これはね、まめこって言ってね」と嬉しそうに話し出す。が、その方には見守るべき自分の子どもがいるわけなので、わたしは隣でハラハラしてしまう。「そんなこと急に言ってもわからないよ…」とさりげなくハム太を押して別の場所へ誘導しなくてはならない。そんなふうにして、ハム太が、二人の男の子(一人は2歳、もう一人は5歳くらい)を連れたお父さんに話しかけているときに、お兄ちゃんが「知らないよそんなのバカ!!」と急に叫んだ。お兄ちゃんは、ちょっと高いところへよじ登ろうとしていて、お父さんに手伝ってほしかったらしい。ただでさえ、お父さんを小さな弟に取られがちなのに、知らない子がやってきてお父さんの注意を引いたのに腹が立ったのだと思う。そんなことは分からないハム太は、悲しそうな目をして固まってしまった。

ハム太は一人っ子で、親には十分過ぎるほどかまわれていると思うけれど、それでもどこかさみしいらしい。コミュニケーションが下手で、仲の良い友達がいないのだが、大人か自分より小さな子どもには話しかけたがる。大人は、わかりにくい彼の話をやさしく聞いてくれるし、小さな子どもはよくわからないながらも、キツイことを言うことなく反応してくれるからだと思う。

ハム太が急にポシェットからまめこを引っ張り出して「ねぇ、ここの人達、だれも話をきかない。だから、大きな声で言うんだ」と言った。「言うってなにを?」と聞き返すと「だれか、この犬を知っていますか?ってきくの」と言い、本当に間髪入れずに大声で「だれかー」と叫び出したので、慌てて止めた。「知っていますか?って聞いてどうするの? 急に叫んだって、だれも自分に言われてるって思わないよ」 

大勢の親子が、それぞれ思い思いに遊んでいるだけなのだが、おそらく、ハム太には、自分とそれ以外の集団に見えているのだと思う。集団の中で無視されているから、大きな声で自分の存在を誇示したい、というところだろうか。とはいえ、この場で大きな声で叫んだって、一瞬注目は浴びるかもしれないが、返事をしてくれる人などいないだろうし、仮に「知ってるよ」や「知らないよ」と返事をされても、ハム太がそれに対して返答して会話を続けることはできないことは想像がつく。そもそも、「この犬知っていますか?」の質問の意味が、わたしにもわからない。なので、「急にここで大声出しても、だれも返事しないと思うよ。保育園のお部屋とは違うんだよ」と言い聞かせ、伝わったのかどうかはわからないが、ハム太はあきらめて、また別の遊びを始めた。

そんなことがあったせいなのか、帰り道のハム太は少し言葉少なだった。わたしはスマホ、ハム太は向かいの席の窓の外を見ているのか、大人しく座っていた。あと3駅で最寄り駅に着くという頃、ハム太とわたしの前で、急に「わぁ、おんなじ!」と女の子の声がした。目を上げると、7~8歳くらいの女の子が立っている。ポニーテールにしたカールした長い髪が、途中からユニコーンみたいなパープルに染められていて目を引いた。女の子がハム太のポシェットに笑顔を向けていたので、「同じって、これ?」とまめこを指さすと、女の子の母親と思しき人が、女の子の髪色と同じパープルのリュックを開けて、取り出したものを女の子に渡した。「ほら!」と見せてくれたそれは、クリーム色の柴犬のぬいぐるみだった。ハム太のものより毛がふさふさしていて、顔が小さくて、おそらく違う会社が作ったものだが、ピンク色の唐草バンダナを巻いている。「わぁ、おなじだね」と言い、ハム太の顔を見ると、軽く紅潮して、まるで怒ったような顔をして、女の子のほうを見つめていた。緊張しているのはわかったので「その子、なんて名前なの?」と代わりに聞くと、女の子が笑顔で「ハチ!」と言う。「かわいいね。ハム太のは何て名前だっけ?」と促すと、首元につけた名札を見せながらやっと「マメコだよ」とハム太は答えた。「おなじだね」と再び女の子が言い、互いのぬいぐるみを見せ合う。ほんの一瞬の交流だった。

そのとき、電車が駅について、女の子と母親は人の流れとともに自然にわたし達の目の前から消えた。ハム太が急にわたしの腕にもたれてきたので覗きこむと「おなじだったね」と、小さな声で言いながら、はにかんだ笑顔がこぼれていた。

ただ単に、同じ(似ている)ぬいぐるみを見つけて自然に声をかけた、それだけのことだったと思う。
あの女の子にとっては、本当にただそれだけのこと。
だけど、ハム太にとって、そしてわたしにとっては、なんだか急に魔法使いが現れた気がしたのだ。
パープルの髪をした、かわいいやさしい魔女さん。
お気に入りのぬいぐるみを、だれにも見てもらえなかったハム太のさみしさを、魔法のように一瞬で埋めてくれた。
困った誰かを助けようとするのではなくて、ただ素直に発した言葉が、誰かをなぐさめることができるじゅうぶんなやさしさであることを、わたしにも教えてくれました。
きっともう会うこともないと思うけれど、ありがとう。






# by umitoramarine | 2023-02-27 00:51 | ハム太郎のこと | Comments(0)

年末~悪夢のような元日



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12月の中旬くらいまで、師走感がない、なんて思っていたのに、急に忙しくなって、気がついたらバタバタと走り続けたまま年を越してしまった。

大掃除もせず、鏡餅のことも忘れていたけれど、喪中だったので(そーちゃんではなく、親族の)、今年はお正月はなしということで、ちょうどよかった。

クリスマスは、義母を招くのが恒例となってきて、今年も我が家でディナーを食べて、プレゼント交換をした。
「割れ物だから注意して」と渡された大きな包みを開けてみると、出て来たのは30センチ以上もある陶器の猫。
「あの子が死んじゃったから」と義母は言い、だからと言って、こんなに大きなひんやりとした猫をもらっても……というのがそのときの正直な感想だったのだけど、とりあえず、窓辺のそーちゃんのベッドに寝かせておいたら、これがなかなか良かった。ふと目をやったときに、空っぽのベッドがあるよりも、この子が寝ていてくれるとホッとする。霊やら形のない存在は、物体に宿りやすいと聞いたことがあり、もしかしたら、この中にそーちゃんがいるかもなんて、思う。義母にはあらためてお礼を言いたい。

28日から海外在住の義父がやってきて、連日、食事を共にすることになったので、30日は自分の時間を持つことにしてその日は行かないと宣言しておいたら、前日に友達がホームパーティに誘ってくれた。友人と友人の旦那さん、旦那さんのお友達とわたしの4人。インテリアがとても素敵な友人宅で、手作りの、どれもこれもおいしいお料理をいただきつつ、のんびりとおしゃべりをして、とっても楽しかった。思えば、コロナが始まって以来、友達と一対一で会うことはあっても、複数の人とこんな感じに時間を過ごすのは初めてだったかもしれない。クリスマスからお正月って、今のわたしにとっては特に楽しみでもなく、家族のために奉仕する時間になってしまっているので、棚から牡丹餅的に自分が純粋に楽しめる時間を持てて、すごく幸せを感じた。友人Mちゃんにも、心から感謝~。

さて、ここから元日の話が始まるのだけど、『悪夢のような』話になるので、こわい話が嫌いな人はこの先を読むのはおすすめしません。精神的にこわい話じゃなくて、本当に『悪夢』みたいな話です。

ここ7年くらい、元日の猫の餌やりを引き受けていて、今年もそうだった。
いつものとおり、餌やりを終えて帰ろうとしたその時、見てしまったのです。カラスの死体を。
30年ほど前だろうか、『カラスの死体はなぜ見つからないのか』という本がベストセラーに入っていたのは。
当時はそのタイトルを何度も目にしたけれど、読んだことはなく、なぜ見つからないのかは、いまだに知らない。
でも、今日までは見たことがなかった、確かに。

どう見ても死んでいるカラスを見つめたまま、見なかったことにして帰るか、それとも埋めてあげるかをしばらく考えた。気持ちとしては帰りたかったけれど、このままにしておくと、きっとゴミとして放り投げられ、燃やされるのかなと思うと、それもかわいそうに思った。とはいえ、カラスを埋めるにはそれなりに大きな穴を掘らないといけない。そこで、シャベルを探しに行って、シャベルが見つかったら埋めてあげることを心に決めて少し歩いたら、シャベルが立てかけてあるのを見つけたんだけれど、同時に、他のものも見つけてしまった。もう一羽のカラスの死体が、近くに落ちていたのだ。
さすがにもう引き返せなくて、カラスの死体の近くに穴を掘った。
2羽が入るくらい大きな穴を掘ってから、「シャベルでごめんね」と謝りつつ、カラスの死体を掬って運んできて、穴に入れて土をかけた。そして、水をかけてあげて、手を合わせた。

それにしても、この元日に、二羽のカラスを埋葬した人は日本でわたしだけではなかろうか。
シャベルにカラスを乗せて運びながら、あまりにもシュールな構図で、まるで悪夢のよう、と思った。
悪夢のようではあるが、現実なので、わたしは特にこわいとは思わなかったけれど。
(見つけたのが、どうせ喪中のわたしでちょうどよかった。)
誰かに話したいと思ったけれど、新年のお祝いムードの中で持ち出せる話題では到底なく、しかし誰かに言いたい気持ちでいっぱいなので、ここに書きました。

こんな一年の幕開けですが、今のところは、いろんなことをやりたい意欲でいっぱい。
残りの半生は、猫に限らないけれど動物ボラをやりながら生きていくと決めたので、もっと知識やスキルを身に着けたいし、また語学への意欲も湧いてきたし、自分磨きもしたいなーと、思っています。
充実した1年を過ごせますように。

今年もよろしくお願いします。






# by umitoramarine | 2023-01-01 23:10 | つぶやき | Comments(2)

はじめての月命日


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そーちゃんが亡くなって、今日がはじめての月命日。

ほんの1ヶ月前まで、手を伸ばせば触れることができたなんて信じられない。
もうずいぶん、経ったような気がしている。
そーちゃんが隣にいなくなってから。

やっぱり、後悔でもさみしさでもなく、涙が出ることがある。
前回の記事に、これは「依存」だと書いたけれど、違った。
たんに、そーちゃんが愛おしくて愛おしくて、それで涙が出ちゃうんだ。

そーちゃんが亡くなる前の夜に、何度もうたった歌がある。
息子がどこかで覚えて歌っていたI love you daddy という英語の歌の、daddyをそーちゃんに替えたもの。


I love you, so-chan. My dear sweet so-chan.
You make me happy when I am sad.
I want to tell you how much I love you.
When I’m with you I'm so glad.


酸素室のすき間から手を差し入れて、そーちゃんを撫でながら、10回以上歌った。
そーちゃんは、呼吸が苦しいはずなのに、鼻がつぶれるくらい、ぐいぐいとわたしの手のひらに顔をうずめていた。

歌っていて、一番感情がこもるのは、
I want to tell you how much I love you (あなたをどんなに愛しているか伝えたい)
というところだった。

伝えたいけれど、とても言い尽くせない、と思っていた。
この歌を100回歌っても、どんなに愛してるって言っても。

ただ、言葉では言い表せないんだけれど、そーちゃんはわたしの愛情を、一粒も余さず受け取ってくれてたと思う。

そーちゃんが元気だったころ、「愛してるよ」と同じくらい、呪文のように言い聞かせていた言葉に、
「100歳まで生きようね」というのがあった。

「そーちゃんが元気でいてくれたら、なんにもいらない。
だから、100歳まで生きようね。100歳まで一緒にいてね」

言い聞かせたら、その通りになる気がしていた。

でも、呼吸が悪くなって少ししたころ、そーちゃんがわたしにこう言っているのを感じた。

「約束、守れなくてごめんにゃ」

信じたくなかったけれど、それから、そーちゃんに「100歳まで」とは言えなくなった。
詫びているそーちゃんに、とてもそんなことは言えなかった。
代わりに、「ずっと一緒ね」と言うようになった。
「ずっと一緒ね」と言うと「ずっと一緒にゃ」と返してくれた。ような気がした。

今でも、さみしい気持ちになると、「一緒にいるにゃ」と言ってくれている気がする。
見えないけれど、ちゃんといてくれる気がする。

わたしは、そーちゃんを言葉で言い表せないほど愛しているけれど、
そーちゃんはそれを上回る愛情を返してくれている気がする。きっと、今も。
だから、さみしいけれど、笑顔で生きてくよ。

大好きだよ、そーちゃん。







# by umitoramarine | 2022-12-15 20:21 | ねこばなし | Comments(0)

苦しさの正体

今日、自転車に乗っていたら、疑問に思っていたことの答えがすとんと降りてきた。
(わたしは、自転車に乗っているときに、探している答えを見つけることが多い。)

前の記事に書いた、そーちゃんにまつわる、後悔とも、さみしさとも違う、苦しさの正体。
それは、依存だ。

そうか、そうか、依存心が苦しんでいるんだ。
自分がそーちゃんに依存しているのは知っていた。
そして、だからこそ、苦しむだろうことも、はじめからわかっていた。
これまで看取ったほかの猫達と、そーちゃんとの大きな違いはそこなのだ。
他の猫達は、はじめから別れが近いことを知っていて、依存しないようにしていたから。

誰かに全体重をかけようとするほど、依存心が大きすぎるのは良くないことだけど、
しかし依存心自体が悪いことのように思えない。
それぞれが自立した関係、というのは素敵なんだけど、良い関係って、ある程度の相互依存も含むんじゃないだろうか。
近くにいて、支え合うということ。
わたしとそーちゃんはお互いに甘えていたし、そんなところを許し合えてもいたし、
だからこの苦しさは、しかたないな、と思えた。

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依存といえば、そーちゃんが亡くなってから、わたしはずいぶん、そーちゃんかかりつけのA病院に依存していたらしいことにも気が付いた。ほぼ毎週、最初の頃は毎日のように病院へ行っていて、数えてみたら、なんと3か月のうちに30回もそーちゃんを連れて行っていた(薬だけ貰いに行った日を除いて)。自分では、そーちゃんに負担をかけたくなく、かなり抑えてたつもりだったけど……。

家でひとり、そーちゃんと向き合って、あれこれ考えていると苦しくなって、病院へ行って先生達と話すと、少しほっとした。あのとき、立場はまったく違うけれど、そーちゃんの病状についてわたしと同じくらい真剣に考えてくれて話し合える人達は、病院の人だったのだ。

そーちゃんが亡くなってから、病院に行って話したいという気持ちが出てきて、困った。
生きている患者だからこそ、助けようと向き合ってくれていたのは、当然、頭では分かっている。
そーちゃんを亡くしたわたしに、すごく寄り添っていただいたけれど(本当に、やりすぎなほど)、それでも、わたしの悲しみとは全く違うものであるのは分かっているし、同じように悲しんで貰おうなどとお門違いな考えは、当たり前だけど持っていない。
でも、平均して3日に1度、大切なそーちゃんを中心にして会ううちに、いつの間にか依存していたらしい。
これは「相互依存」じゃなくて、あくまで、わたしが勝手に寄りかかっていただけだけど……。

そーちゃんが亡くなって、今更だけど、動物の生理学や病理学について勉強したくなってきた。
長年、そーちゃんと暮らし、猫だって3匹看取ったのに、最近初めて知ったことも多くて。
これからも、できる限りは猫ボラを続けるつもりでいるし、ちゃんと知識があればもっと早く気が付けることだったあるだろうなと思い、少し、いろいろ検討している。
誰かを助けたいと思ったら、依存している場合ではないもの、ね。






# by umitoramarine | 2022-12-04 00:02 | ねこばなし | Comments(0)

アラフォーのわたしと夫と猫2匹の暮らしに、男児が一人加わりました(2016年11月)。おいしいもの、猫、本、アートと子育て日記。


by umi