人気ブログランキング | 話題のタグを見る

息子とそーちゃん

昨日はやけに辛い日だった。
後悔とも、さみしさとも違って、ただ辛い。辛くてじっとしていられなかった。
今日はそうでもなく落ち着いている。

息子とそーちゃんのことを書こうと思う。
産前産後、2週間も入院していたわたしが息子を抱いて家に戻った日、そーちゃんは動揺した。
わたしの腕の中のちいさな生き物を見て、「なにこれ」という顔をし、息子が泣きだすと、すーっとその場を離れた。

息子とそーちゃん_f0370142_22193152.jpeg

でもそれはちょっとの間だけで、すぐに、なぜか、小さな生き物はわたしの子どもであることを理解したようだった。

自分以外の猫も、犬も、フェレットも苦手だったそーちゃんは、息子が泣くとすぐそばにやってきた。
1メートルほど間を空けて隣に座るだけで、どうしたら良いかわからず、ちょっと困った顔をしていた。
まだ寝返りもうてない息子は、隣に自分よりも大きな猫がいることも知らず、ぎゃあぎゃあ泣きじゃくっていた。
大きくなった息子は、号泣することも少なくなったけれど、発病してからも、なにかで泣きだしてしまった息子の傍に来て、心配そうな顔で眺めていたのがまだ記憶に新しい。今やそーちゃんの3倍の体重になった息子でも、まだ心配なんだなと思ったのだ。

息子とそーちゃん_f0370142_22195672.jpeg


いつからか、夜、息子を寝かしつける時間になると、そーちゃんもやってくるようになった。
落ちないように、壁側に息子を寝かせると、反対側の端にそーちゃんが横になる。
川の字の真ん中にいて、わたしに最高に幸せな時間だった。

広いベッドの上なのに、息子は痛いくらいわたしにくっついて、さらに「ママこっちを向いて」と言う。
身体ごと、息子を向いてほしいのだ。
でも、そーちゃんはそーちゃんで、わたしが腕を回して、手のひらを枕にしてあげるのを待っている。
「でも今、こっちにそーちゃんがいるから」と言うと、息子は「ぼくが真ん中がいい!」と主張する。
「ママが真ん中。じゃないと落ちるでしょ」と言い返す。
毎晩、同じことの繰り返し。あたたかな時間だった。
だから今も、夜眠るときが一番せつない。
息子とそーちゃん_f0370142_22200538.jpeg

そーちゃんが死んだことを、息子には言わないことに決めた。
前に、わたしの祖母が亡くなったことをうっかり話したとき(それが、息子と「死」について話した最初のときだった)、息子は「ママのおばあちゃんが死んでいるのがこわい」と怯えた。幽霊などではなく、「死」をこわがったのだ。
息子が曾祖母に会ったのは、一度きり、2歳のときのことで、記憶にはない。
もし、これまでずっと一緒だったそーちゃんが亡くなったことを知ったら、どんな反応をするのかと思うと、言えなかった。
「そーちゃんは、病気だから、もっと大きな病院へ行った」と伝えることにした。

初めはさらりとそれを受け入れた息子だったけれど、火葬をした二日後、「そーちゃんはどこ」と探し始めた。
「大きな病院へ行くって言ったでしょ?」と言うと「道に迷って帰って来れないの?」と泣きそうになった。
「入院してるんだよ」と言うと「誰がそーちゃんの世話をしているの?」と聞く。
困って「うーん、天使かな」と言うと「天使って……女の子じゃん」と、よくわからないが子どもらしい反応が返ってきた。

そーちゃんの骨壺の入った箱を見て、「これって神様の家?(神社のこと)」と聞いていた息子が、ある日、「これが、そーちゃんのお家なの?」と尋ねた。わたしが、骨壺と写真に話しかけるのを聞いていたからだろう。

かと思うと、「そーちゃんはいつ帰ってくる?」と聞き、わたしが粗大ゴミに出そうとペットゲートを運んでいるのを見て「そーちゃん帰ってきた?」と嬉しそうに駆け寄ってきたりした。

夜、寝るときにそーちゃんを思い出すのは息子も同じのようで、わたしが仰向けになっていると、「どうして上を向いているの? そっち側にそーちゃんがいるから?」と訊いてくる。「いないよ」と言うと「そーちゃんに会いたい」と言う。「ママも会いたい」と言って、目を閉じる。

ある夜、暗闇の中で「そーちゃんの病院はどこ?」と聞く。「……どうぶつの森病院」と答えると、「そーちゃんはもう帰って来ないの?」と重ねてくる。うーん、わかんない……いつか帰ってくるかも……とごまかす。

またある夜、「ママ、こっちを向いて」と言うので「やだ」と言うと(背中が痛かったから)、「そーちゃん来た?」と身体を起こそうとする。「見えないけどね」と言うと「見えないけどいるの?」と言いながら、わたしの隣に誰もいないのを確かめて横になる。「ぼく、そーちゃんに会いたい」と聞こえたので、「ママも会いたい」と言うと、続いてもぞもぞとなにかを呟くのが聞こえた。

「なんて言ったの?」と耳を寄せると「ママ、ぼくが守ってあげるからね。パパもだからね」と、息子は言っていたのだった。

そういえば、寝る前に、誰が真ん中になるかを争っているうちに、うんざりしたそーちゃんがベッドから降りてしまい、「えっ、行かないでよー」と半泣きの声をあげるわたしに、「代わりにぼくがいるよ」と息子がしがみついてくるまでが、ほぼ毎晩の儀式だったのだ。

もしかしたら、息子がそーちゃんの帰りを待っていたのは、半分はわたしのためだったのかもしれない……と、遅ればせながら気が付き、同時に、息子が少しずつ、そーちゃんの死を感じ取り、そして受け入れ始めていることもわかってきた。

息子とそーちゃん_f0370142_22201467.jpeg
ある夜、ベッドの中で「そーちゃんは、もしかして、絶滅しちゃったの?」と息子は聞いた。
はぐらかす気にもなれなくて、「そうかもね……」と言うと、息子は静かになり、眠りについた。
それから、「そーちゃんに会いたい」と言うことはあっても、「いつ帰ってくる?」とは聞かなくなった。

「ママ、なんで上を向いてるの? そーちゃんがいるから?」と、今晩も息子は聞いてきた。
「うん」と言うと、「えっ、『出た』の?」と言う。『出た』なんて表現、いつ覚えたんだろう。
わたしの隣に、誰もいないのを一応確かめて、枕に頭を戻しながら「会えてよかったー」と明るい声で息子は言う。
「誰に?」「そーちゃんに」
そうだね。会えてよかったね。
でも、6歳が「出会えてよかった」なんて、どうして考えるのか、わたしはふしぎだ。

そーちゃんのこと、早く忘れてほしいと思ってた。そして、きっとすぐ忘れるだろうとも思ってた。
でも、できたら、覚えていてほしいな、そーちゃんのこと。思い出しても辛くないなら。
息子のこと、すごく大切にしてくれていたそーちゃんが、息子の中でも生き続けてくれたらいいなと思う。


# by umitoramarine | 2022-12-01 22:16 | ねこばなし | Comments(0)

2週間


2週間_f0370142_14003390.jpeg

前の投稿に、あまり涙することもなくなってきたと書いたけれど、時々すごく苦しくなる。

そーちゃんが亡くなって数日で、わたしはそーちゃんにまつわる不要なものを処分した。
こういうとき、いつまでも手元に置きたい人と、目の前から消したい人と分かれると思うけれど、わたしは前者だと思っていた。本当は、捨てるのが苦手なのだ。だけど、苦しくて、勢いでいろいろゴミに出してしまった。
粗大ごみの収集を申し込んで、15年間使っていたキャリーと、そーちゃんのお気に入りだったスウィングを処分する手続きもした。

でも、実際の粗大ごみ引き取り日の前日に、かなしみに襲われた。
そーちゃんのキャリーは他の猫には大きすぎるし、とっくにボロボロだった。最後の方、そーちゃんが怒りからか、体調のせいか、中でおしっこをしたので、くさかった。いつも、「やだ…」って小さく唸りながら素直に入ってくれたけど、そーちゃんにとっては、何一つ良い思い出のないキャリー。でもわたしにとっては、そーちゃんを迎えてすぐに、ドキドキしながら選んだグッズの一つで、ゴミにしてしまうのは少しせつなかった。

そして、スウィング。息子のために購入したけれど、抱っこしていないと泣いたのでほとんど使うことなく、そーちゃんのベッドになったスウィング。リビングのわたしの席の隣にあって、いつも手を伸ばせばそーちゃんに触れられた。そーちゃんとキャットタワーの居場所をめぐって喧嘩していたもう1匹の猫も、なぜかここだけは侵略しようとしなかった。空席になった今でもだ。大きくて邪魔で、掃除機をかけるときに動かすのも大変。なにより、つい目が行ってしまい、そのたびに不在を感じてしまうので、処分しようと思ったけれど、収集の日が迫ってきたら、たまらない気持ちになってしまって、結局、こちらの処分はキャンセルした。今も、空席のまま、わたしの席の隣に置いてある。やっぱり、邪魔だけど。

昨夜、たまらなくそーちゃんに会いたくなって、2年前に犬を亡くした友人の、「今でもときどき、あの子と二度と会えないのかと思って愕然とする」という言葉を思い出していた。

まだ手に残っている、そーちゃんの頭の形を、毛の感触を、ほっぺに伝わってくるあたたかなゴロゴロ音を、二度と感じることがないうちに、少しずつ忘れて行ってしまうのかな。

もう二度と会えないそーちゃんを求めて苦しい気持ちになるのは嫌なんだけど、忘れていってしまうのもこわい。

今日は、急に二度ほど涙ぐんでしまって、悲しく、そして少し安心した。



# by umitoramarine | 2022-11-28 23:58 | ねこばなし | Comments(0)

1週間


1週間_f0370142_23093812.jpeg

そーちゃんが亡くなって、1週間と1日が過ぎた。
最初の3日間は、時々、めそめそしていたけれど、もうあまり涙は出ない。
でも、ずーっとそーちゃんのことを考えている。頭から離れない。

心臓の止まってしまったそーちゃんを連れて病院から出るとき、先生が「ぼくのせいで」と謝ってくれた。
「先生のせいじゃないです」とわたしは言った。本当にそう思っていたから。
あのとき、病院へ行かなければ、きっとまだそーちゃんはまだ生きていただろう。
でも、そのことを悔やんだり、自分を責める気持ちもなぜか湧き上がってこなかった。ふしぎなくらい。

先生は精一杯助けようとしてくれて、わたしも、やり過ぎてそーちゃんを苦しめないよう葛藤しながらも、
出来る限りのことをして、その結果だから、後悔はないと思っていた。
それと、亡くなったそーちゃんの身体があまりに美しかったから、ここ3か月で一番きれいだったから、
そーちゃんにとってもベストなタイミングだったんだと思った。

でもやっぱり、時間が経つと、ぎゅっと自分を守っていたものもほぐれてしまうのか、考え始めてしまうね。
あの日のことについて後悔はない。それは今も変わらない。
それ以外のことについては、後悔しようと思えばいくらだって掘り起こすことができる。
でもそれはしない、と最初は思っていたのに、気が付くと考えてしまっている。
あのとき、ああしていれば、もしかしたら……と。

もしかしたらは、魔物だね。後悔を持って振り返ったら、選ばなかった道が良く見えてしまう。
本当にうまく行った保証なんて一つもないのに。もっと悪かったかもしれないのに。

たとえば一つの「もしかしたら」に、遠くの呼吸器専門病院に連れて行っていたら、というのがある。
動物の呼吸器専門の病院は少なくて、家からタクシーで1時間ほどのところに、2軒見つかった。
連れて行きたい、と思ったけれど、そーちゃんの移動の負担を考えただけで、実行には移せなかった。
たった1回の診療で済むわけではないから。
移動の負担を軽減するために入院させたとしても、そーちゃんにかかるストレスが計り知れないから。
だから、行かないと決めたのに。
ふと気が付くと、「あの病院に行っていたら……」と考えている自分がいる。
あの病院に行ったって助からなかったかもしれないし、余計に命を縮めた可能性だってあるのに。
もっと早く気が付いていたら、もっと早くにあの薬を試していたら。後悔が止まらない。

考えたってそーちゃんは帰って来ないんだよ、と自分に言い聞かせる。
なかなか、後悔のない別れって、ないものなのだな。
だって大好きだったから。もっと一緒にいたかったから。会いたいから。さみしいから。

そーちゃんの火葬を終えたあと、お世話になった病院へ挨拶に行った。
先生にも、もう一度、先生のせいではないことを伝えたかった。
けれど、口下手なわたしは、そーちゃんに別れの挨拶をされたのに気づかないふりをしてしまったことや、
後悔はしていないこと、そーちゃんの亡骸が美しかったことなどをbeat around the bush的に話してしまって、
一番大切なことを言い忘れた。

一番伝えたかったのは、

「先生が無麻酔を検討したのも知っている。
難しい選択をして結果そーちゃんが亡くなったからと言って、それはただの結果であって、失敗でもミスでもない。」

ということだった。今更もう言えないけど。
いつも、大切な場面で、一番大事なことを言い逃したり、質問し損ねたりするのをやめたい。

それはともかく、先生に伝え損ねた言葉を、今、自分に言い聞かせている。
1週間目の気持ち。
でもきっと、後悔ばかりを続けるわけでもなくて、これも少しずつ変わっていくんだろうな。
風みたいに、命みたいに、すべて通り過ぎて行くんだろうな。



# by umitoramarine | 2022-11-23 23:09 | ねこばなし | Comments(0)

お見送り

お見送り_f0370142_09195015.jpeg

11月17日、そーちゃんを荼毘に付してきました。
空気の澄んだ美しい晴れの日で、空には鳳凰が飛んでいました。

お寺の方が車で迎えにきてくださり、そーちゃんを抱いて葬儀場へ向かいました。
一緒にお箱に入れる、そーちゃんの好きなものを持ってきてくださいと言われたけれど、
そーちゃんの好きなものって、あまり無かった。

元気なときから食にあまり執着が無くて、おやつを勧めても食べなかった。
たまに、わたしがアイスクリームやチーズを食べているときにねだることがあったけれど、
ほんのちょっとあげるとそれで満足していた。
ラキサトーンは好きで、それを舐めるのがおやつ代わりだった。
投薬をするのに、いろいろ試して「猫スタミノール」という栄養補助食品がすきなことがわかった。
スタミノールにはすごく助けられたな……。

仔猫のときはよく遊んでたけれど、もはやおもちゃに興味もなかった。

好きなものは家族で、テレビの前なんかに3人が集まると、「遅れてごめんー」って風にいそいでやって来ていた。
ベタベタすることはなかったけれど、ただ一緒にいて、同じ空気を感じていたいみたいだった。

だから、お箱に入れるのに持って行ったのは、いつも食べていたフードとラキサトーン、スタミノール、
夜に一緒に食べていたカマンベールチーズ、一輪ずつ選んで作った花束、それから、そーちゃんへの手紙でした。
わたしがここ数年愛用していたルームウェアでそーちゃんを包んだ。
わたしの匂いに包まれて、抱っこされている気分になってほしくて。


お見送り_f0370142_09242092.jpeg

腕の中のそーちゃんは本当に本当にきれいで。眠っているようにしか見えなくて。
毛の一本一本まで輝いていて、動物を見送ったことは何度もあるけれど、こんなのを見るのははじめてだった。
イタリアの聖人の不朽体みたいに、このまま100年も輝きつづけるんじゃないかと思ったくらい。
動かなくてもいいから、このままわたしの隣の席で眠っていてくれたら、って思った……。
亡き人をミイラにしたり、ペットをはく製にする人の気持ちがはじめてちょっとだけわかった。
あまりにきれいすぎて、そーちゃんの体を手離すのは少しだけ余計に辛かった。

でも、輝いているそーちゃんの体を見て、たしかになにかが守ってくれていると感じた。
まるで祝福されているみたいだった。
変な話なんだけれど、もしかしたらそーちゃんにとって最後の猫生だったのかなと思う。
そーちゃんは、ただの猫じゃなったから。

前の晩に、そーちゃんのスウィングの隣に布団を敷いてふたりで寝た。
葬儀場でも、「あと5分だけ」とお別れの時間を長めにもらったけれど、最後に白い布をかけるときは辛かった。
一度かけた布をもう一度あげて、いつもしていたように、額にキスをして「愛してるよ」と言った。

そーちゃんの骨はしっかりしていて、爪や牙や、しっぽの先の一番細い骨まで残っていた。
「大型犬でも残らない子、いるからね」と、骨をほめられてもうれしかった。すべてが自慢の猫だから。
ふつうの猫用よりワンサイズ大きな3.5寸の壺に入って、そーちゃんは帰宅した。

お昼を食べていなかったので、夫と二人、遅いランチを食べてから、お花を買った。
明るいうちは気持ちが落ち着いていたんだけれど、夜になったらこわくなってきてしまって。
夫と、相変わらずうるさいくらいの息子もいるのに、叫び出したいくらいこわい気持ちになった。
そーちゃんの霊を見ることが、ではない。見られるものなら霊だっていい、会いたい。
そうではなくて、そーちゃんの不在を感じるのがこわかったのだ。
考えてみると、昼間はベッドの上や窓際にいたりもしたけれど、夜になるとキャットタワーかスウィングか、
とにかく目の届くところにそーちゃんはいたのだった。

夜がこわいと思ったり、はく製にする人の気持ちがわかったり、今まで知らなかった自分の一面を見て、
あらためて、そんなところにまで届くほど、わたしのそーちゃんへの愛は深かったのだなぁと思う。

大好きだよ、そーちゃん。愛してるよ。
本当に、何回言っても足りなかった。
これからも、毎日言うね。

愛してるよ、そーちゃん。


お見送り_f0370142_09282578.jpeg

# by umitoramarine | 2022-11-21 14:04 | ねこばなし | Comments(0)

そーちゃん。

そーちゃんが亡くなりました。

前の投稿を書いてから、そーちゃんの体調は膠着状態に見えていました。
良くはなっていない代わりに、悪くもなっていないような。
それなりにご飯も食べて、良いウンチをして。
でも、少しずつ体重は減り、酸素室に入る時間が多くなっていました。

昨日と一昨日、さらに食欲が落ちて、いつもよりそーちゃんが起きていることが多いと思ったので、
(胸水が溜まり過ぎると苦しくて横になれなくなるので)
今日の午後、胸水を抜いてもらうために病院へ連れていきました。

最近調べていたこと、使えるかもしれない薬の話などして、15時にお迎えに行く約束をして、一度家へ帰りました。
帰宅して程なくして、スマホが鳴り、見ると動物病院からで、「なにかの確認かな」とのんきに応答したら、
聞こえてきたのは「すぐ来てください。そーちゃんの呼吸が止まってしまって」という切迫した声でした。
頭が真っ白になりつつ、事態が把握できないまま、そーちゃんが死ぬわけないと信じながら病院へ駆けつけたら、
先生がドラマのようにソニヤの心臓マッサージをしていました。
顔を覗き込んだら、そーちゃんは目も瞳孔も大きく開いていて……
大きな声で呼んだら、瞳孔がヒュッと縮まって意識を取り戻してくれるんじゃないかと思ったけれど、
そんな奇跡は起こりませんでした。
モニターをにらみながら心臓マッサージを続けてくれる先生を見て、
これはきっとわたしのためにやってくれているんだなと悟り、「もういいです」と言いました。
そーちゃんは戻ってこない。
もし仮に、そーちゃんが戻ってきたとしても、きっとそれは、かなり苦しい状態のそーちゃんになることは、
経験上、知っていたからです。

いろんな管を外してもらって、抱き上げたそーちゃんはぐにゃりとして掴みどころがなくて、
生きていた頃よりずっとずっしりしていました。
大きく見開いた目を閉じさせようとしたけれど、閉じなくて、でもそれは、帰宅して、
そーちゃんが特等席にしていた、わたしの椅子の隣のスウィングに寝かせたら、ふしぎに閉じてくれました。
ここ3か月間、ほとんど座らなくなっていたスウィング。

今、そーちゃんはそこに寝ています。
生き物って亡くなると光が消えるんだけど、そーちゃんは本当に眠っているみたい。まだそこにいるんだと思う。
すごく穏やかな顔をしている。
やっと苦しくなくなったんだね。
安心して眠ってるんだと思う。

亡くなりました、と書いているけれど、きっと、わたし本当はまだ受け入れきれていないんだろうな。
ちょっと冷たいけれど、きれいなそーちゃんがそこにいるから。
もう少ししたら、二度と触れられなくなるなんてさみしい。

今日はお通夜のつもりだったけれど、午前2時も過ぎて、疲れてきました。
少し眠ろうかな。おやすみ、そーちゃん。また明日ね。




# by umitoramarine | 2022-11-16 02:15 | ねこばなし | Comments(2)

アラフォーのわたしと夫と猫2匹の暮らしに、男児が一人加わりました(2016年11月)。おいしいもの、猫、本、アートと子育て日記。


by umi