息子とそーちゃん
2022年 12月 01日
昨日はやけに辛い日だった。
後悔とも、さみしさとも違って、ただ辛い。辛くてじっとしていられなかった。
今日はそうでもなく落ち着いている。
息子とそーちゃんのことを書こうと思う。
産前産後、2週間も入院していたわたしが息子を抱いて家に戻った日、そーちゃんは動揺した。
わたしの腕の中のちいさな生き物を見て、「なにこれ」という顔をし、息子が泣きだすと、すーっとその場を離れた。
でもそれはちょっとの間だけで、すぐに、なぜか、小さな生き物はわたしの子どもであることを理解したようだった。
自分以外の猫も、犬も、フェレットも苦手だったそーちゃんは、息子が泣くとすぐそばにやってきた。
1メートルほど間を空けて隣に座るだけで、どうしたら良いかわからず、ちょっと困った顔をしていた。
まだ寝返りもうてない息子は、隣に自分よりも大きな猫がいることも知らず、ぎゃあぎゃあ泣きじゃくっていた。
大きくなった息子は、号泣することも少なくなったけれど、発病してからも、なにかで泣きだしてしまった息子の傍に来て、心配そうな顔で眺めていたのがまだ記憶に新しい。今やそーちゃんの3倍の体重になった息子でも、まだ心配なんだなと思ったのだ。
落ちないように、壁側に息子を寝かせると、反対側の端にそーちゃんが横になる。
川の字の真ん中にいて、わたしに最高に幸せな時間だった。
広いベッドの上なのに、息子は痛いくらいわたしにくっついて、さらに「ママこっちを向いて」と言う。
身体ごと、息子を向いてほしいのだ。
でも、そーちゃんはそーちゃんで、わたしが腕を回して、手のひらを枕にしてあげるのを待っている。
「でも今、こっちにそーちゃんがいるから」と言うと、息子は「ぼくが真ん中がいい!」と主張する。
「ママが真ん中。じゃないと落ちるでしょ」と言い返す。
毎晩、同じことの繰り返し。あたたかな時間だった。
だから今も、夜眠るときが一番せつない。
そーちゃんが死んだことを、息子には言わないことに決めた。
前に、わたしの祖母が亡くなったことをうっかり話したとき(それが、息子と「死」について話した最初のときだった)、息子は「ママのおばあちゃんが死んでいるのがこわい」と怯えた。幽霊などではなく、「死」をこわがったのだ。
息子が曾祖母に会ったのは、一度きり、2歳のときのことで、記憶にはない。
もし、これまでずっと一緒だったそーちゃんが亡くなったことを知ったら、どんな反応をするのかと思うと、言えなかった。
「そーちゃんは、病気だから、もっと大きな病院へ行った」と伝えることにした。
初めはさらりとそれを受け入れた息子だったけれど、火葬をした二日後、「そーちゃんはどこ」と探し始めた。
「大きな病院へ行くって言ったでしょ?」と言うと「道に迷って帰って来れないの?」と泣きそうになった。
「入院してるんだよ」と言うと「誰がそーちゃんの世話をしているの?」と聞く。
困って「うーん、天使かな」と言うと「天使って……女の子じゃん」と、よくわからないが子どもらしい反応が返ってきた。
そーちゃんの骨壺の入った箱を見て、「これって神様の家?(神社のこと)」と聞いていた息子が、ある日、「これが、そーちゃんのお家なの?」と尋ねた。わたしが、骨壺と写真に話しかけるのを聞いていたからだろう。
かと思うと、「そーちゃんはいつ帰ってくる?」と聞き、わたしが粗大ゴミに出そうとペットゲートを運んでいるのを見て「そーちゃん帰ってきた?」と嬉しそうに駆け寄ってきたりした。
夜、寝るときにそーちゃんを思い出すのは息子も同じのようで、わたしが仰向けになっていると、「どうして上を向いているの? そっち側にそーちゃんがいるから?」と訊いてくる。「いないよ」と言うと「そーちゃんに会いたい」と言う。「ママも会いたい」と言って、目を閉じる。
ある夜、暗闇の中で「そーちゃんの病院はどこ?」と聞く。「……どうぶつの森病院」と答えると、「そーちゃんはもう帰って来ないの?」と重ねてくる。うーん、わかんない……いつか帰ってくるかも……とごまかす。
またある夜、「ママ、こっちを向いて」と言うので「やだ」と言うと(背中が痛かったから)、「そーちゃん来た?」と身体を起こそうとする。「見えないけどね」と言うと「見えないけどいるの?」と言いながら、わたしの隣に誰もいないのを確かめて横になる。「ぼく、そーちゃんに会いたい」と聞こえたので、「ママも会いたい」と言うと、続いてもぞもぞとなにかを呟くのが聞こえた。
「なんて言ったの?」と耳を寄せると「ママ、ぼくが守ってあげるからね。パパもだからね」と、息子は言っていたのだった。
そういえば、寝る前に、誰が真ん中になるかを争っているうちに、うんざりしたそーちゃんがベッドから降りてしまい、「えっ、行かないでよー」と半泣きの声をあげるわたしに、「代わりにぼくがいるよ」と息子がしがみついてくるまでが、ほぼ毎晩の儀式だったのだ。
もしかしたら、息子がそーちゃんの帰りを待っていたのは、半分はわたしのためだったのかもしれない……と、遅ればせながら気が付き、同時に、息子が少しずつ、そーちゃんの死を感じ取り、そして受け入れ始めていることもわかってきた。
ある夜、ベッドの中で「そーちゃんは、もしかして、絶滅しちゃったの?」と息子は聞いた。
はぐらかす気にもなれなくて、「そうかもね……」と言うと、息子は静かになり、眠りについた。
それから、「そーちゃんに会いたい」と言うことはあっても、「いつ帰ってくる?」とは聞かなくなった。
「ママ、なんで上を向いてるの? そーちゃんがいるから?」と、今晩も息子は聞いてきた。
「うん」と言うと、「えっ、『出た』の?」と言う。『出た』なんて表現、いつ覚えたんだろう。
わたしの隣に、誰もいないのを一応確かめて、枕に頭を戻しながら「会えてよかったー」と明るい声で息子は言う。
「誰に?」「そーちゃんに」
そうだね。会えてよかったね。
でも、6歳が「出会えてよかった」なんて、どうして考えるのか、わたしはふしぎだ。
そーちゃんのこと、早く忘れてほしいと思ってた。そして、きっとすぐ忘れるだろうとも思ってた。
でも、できたら、覚えていてほしいな、そーちゃんのこと。思い出しても辛くないなら。
息子のこと、すごく大切にしてくれていたそーちゃんが、息子の中でも生き続けてくれたらいいなと思う。
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by umitoramarine
| 2022-12-01 22:16
| ねこばなし
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